2014年5月25日日曜日

日時計

 夏に所沢市から星空のイベントに本校地球科学部に参加してもらえないかとの話があった。天文工作をするのが、参加者にも生徒にもためになるかと思い、小学生でもつくれるものとして日時計を考えている。
 日影の科学についてはこれまでに調べたことがあったが、上記の目的で紙製の日時計を何種類か作ってみた。一番小学生向きなのは「コマ型日時計」で工作と理論とが簡単である。「赤道式日時計」は理論は簡単だが工作がやや難しい、小学生でも高学年向きか。作るのは簡単だが、理論として三角関数がいるのが「平板型日時計」である。またさらに工作は容易だが理論が難しいのが「垂直棒日時計」である。詳しくは授業実践のページにまとめる。

青銅鏡

 ゴールデンウィークに部活動で秩父に地質見学に行った。蓼沼で化石採集をして和銅遺跡を見学した。この遺跡で奈良時代にとれた自然銅を使って日本最古の硬貨である和同開珎がつくられたそうだが、そんなことから青銅鏡をつくることにした。
 るつぼに銅(銅板を切ったもの)と錫を約3:1の質量比で入れ、上から木炭粉をかぶせる。そのあとマッフルでカバーをしたるつぼをガスバーナーで30分弱加熱すると溶融し両者が混合する。その後型に入れ冷却させる。この状態だと表面に凹凸のある金属の円盤にしか過ぎないのだがこれを磨いて鏡にする。ただしここからが時間がかかるのだが、回転式の岩石研磨機によって荒削りをした後、次々に細かい研磨剤を使い2日間(6時間程度)で何とか鏡をつくることができた。

ps 日本の硬貨
1円・・・アルミ100
5円・・・黄銅or真鍮(銅60~70、亜鉛30~40)。もとは薬莢からの流用。
10円・・・青銅(銅95、亜鉛4~3、錫1~2)。
50円・・・白銅(銅75、ニッケル25)。銀の代用。
100円・・・白銅(銅75、ニッケル25)。銀の代用。
500円・・・ニッケル黄銅(銅72、亜鉛20、ニッケル8)
2014-06-05

2014年5月4日日曜日

火星の準小接近

 4月14日に火星が最接近した。準小規模の接近のため特に騒がれないが、2年2か月ぶりの接近で今シーズンの見ものの1つである。地球はほぼ円軌道なのに対し、火星ははっきりとした楕円軌道のため。近づく位置によって接近の距離が変化する。近辺の最接近で最も近づいたのが2003年8月27日の5600万キロ(0.37天文単位)、最も遠かったのが12年3月5日の10000万キロ(0.67天文単位)である。
 3月と5月の観測会で2度ほど観望、写真撮影したが20cmシュミカセではっきりと極冠や濃淡模様(いわゆる地形)が観察できている。今回はこの程度だが次回(16年5月30日、7500km)とその次の大接近(18年7月31日、5800km)にはよりきちんとした計画を立て観察をしていきたいと考えている。

ps 火星の準小接近
火星の準小接近
 今年の3月から5月は夜空に普段見られない赤い星が輝いているのに気が付いた人も多いと思いますが、これが火星です。火星は地球の一つ外側を公転する惑星で公転周期は1年11か月と比較的地球に近いため、2年2か月ごとに地球に近づきます。そして今年4月14日に地球と接近をしました。地球の公転軌道はほぼ円なのに対し火星ははっきりと楕円軌道をとるため近づく位置によって近かったり遠かったりします。近い接近を大接近、遠い接近を小接近と呼び、それはそれぞれ8月、2月に接近することに相当します。今年は4月の接近なので準小接近と呼ばれています。火星は大気が少なく接近の際には表面が観察できます。全体に赤い色をしていますがこれは赤鉄鉱の色で、極地位にはドライアイスの氷が白く見えるときがあります。また赤い部分は濃淡があるため、その模様に名前が付けられていて、暗い部分は月と同じようの海の名が与えられています。この模様の動きからその自転周期は測定され地球とほぼ等しい1日と40分です。
 地球科学部では3月末と5月初めの観測会の時、写真を撮りましたが以下そのデータです。
写真1(上)14/03/25、EM-1S赤道儀、FL102S、7mm接眼拡大、NEX-5N。アキダリアの海が下(南)に黒く見える。
写真2(下)14/05/02、スフィンクス赤道儀、20cmシュミカセ、7mm拡大、NEX-5N。アキダリアの海が下(南)に黒く見える。
これ以外にも複数回挑戦したが風がある日は満足な画像が得られなかった。
 なお次回の接近は2016年5月31日で、中接近ということになります。
(学校用の解説シート原稿)
2014-06-08

2014年5月2日金曜日

石の世界と宮沢賢治

 2学年の遠足で国立科学博物館の特別展「石の世界と宮沢賢治」をみる。
 小学生から鉱物採集が好きで「石っこ賢さん」と呼ばれていたこと、現岩手大学農学部の前身の盛岡高等農林学校に入学し地学を学んだ。彼が作った地質図や岩石薄片(?)も展示されていた、成績が良く教員として残らないかと誘われていたとあった。このころ埼玉の長瀞周辺に地質巡検に来ている。
 次に、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)の教師となり、生徒とともに地質調査をし地質図を作成したりしている。またその後東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当し、農業改良に取り組んでいた。
 急性肺炎で37歳で死去した。
 賢治が地質学が専門であることは知っていたが、具体的な資料でここまでみたのは初めてであった。