小学生から鉱物採集が好きで「石っこ賢さん」と呼ばれていたこと、現岩手大学農学部の前身の盛岡高等農林学校に入学し地学を学んだ。彼が作った地質図や岩石薄片(?)も展示されていた、成績が良く教員として残らないかと誘われていたとあった。このころ埼玉の長瀞周辺に地質巡検に来ている。
次に、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)の教師となり、生徒とともに地質調査をし地質図を作成したりしている。またその後東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当し、農業改良に取り組んでいた。
急性肺炎で37歳で死去した。
賢治が地質学が専門であることは知っていたが、具体的な資料でここまでみたのは初めてであった。
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