2015年10月10日土曜日

沖縄修学旅行

 沖縄修学旅行に2泊3日で行ってきた。今回行った場所で印象的な場所について記録する。
萬華の塔とアンティラ壕・・・萬華の塔は南部の激戦地にたつ、地元の方が誰かれなく遺骨を収集し慰霊のために作った納骨堂と碑である。その後周囲には軍隊関係者が関係者のみを慰霊したり軍隊を賛美する慰霊碑が建てたが、日本軍の判断の誤りによって悲惨な状況に陥れられた沖縄の人々はどう思うのであろうか。
 すぐ背後にはアンティラ壕がある。全長約250Mの長さで、もともとは住民避難壕であったが、5月末軍隊により追い出され砲兵部隊の陣地となった。その後米軍に包囲され6/20に同部隊は全滅した。その後住民と敗残兵がガマに入り軍民雑居の状態になった。そんななか、兵隊や避難民も「赤ちゃんの泣き声で壕が米軍に発見されたら、壕全体の人が犠牲ななるから、家族みんなで壕を出るか、赤ちゃんを殺すかどっちかにしてくれ」と云われたり、母親が子供を殺す事を躊躇している間に、日本兵が子供絞め殺す幼児虐殺もあった。7月末にはアンディラガマは米軍による火焔放射のために、入口付近でたくさんの犠牲者が出ていて、壕入り口天井の石灰岩には今もその痕跡が残る。
対馬丸記念館・・・県庁前から北西へ歩いて20分の所にあり、対馬丸事件に関する資料収集と公開をしている施設ですぐそばには慰霊碑「小桜の塔」がたつ。サイパンが陥落し次のアメリカ軍の標的が沖縄になる可能が高まる中、戦闘の足手まといになる子供を中心に強制的に九州や台湾に疎開させる命令が下された。最初の疎開船が対馬丸ほか2隻で、2隻の護衛艦を伴い、1944年8月21日に長崎に向け出港。翌日の夜潜水艦の魚雷攻撃を受け対馬丸のみ沈没、1788名の乗船者のうち1484名の犠牲者を出す惨事を招いた。問題とされるのは対馬丸が直前の航海で軍人を輸送していたこと(潜水艦は直前の軍事物質を輸送を把握)、および他の4隻は自分達の安全を考え遭難救助を行わないでその場を立ち去ったこと。生存者は数日から10日間、海を漂流し漁船に助けられたり島に流れ着いたりしている。またその後、軍から遭難のことは一切しゃべるなとのかん口令が出されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿